齋藤亮直展 イミナンテナイ
SAITO Akinao solo exhibition
"NULL POINT"

2017年8月22(火) - 27日(日)
Gallery Café 3

ご挨拶

この度は「齋藤亮直展 イミナンテナイ」に足を運んでいただきありがとうございます。昨年の9月に初の個展を開き、今回は2回目の個展になります。どうも未だに展示会をやることの意味がわからないでいます。個展をやって多くの人に作品を観てもらいたい!なんて強い欲求はあまりありません。強いて言えば、部屋で独り悶々と絵を描く毎日をおくっていると、たまに、友人とゆっくり話す時間が欲しいなと思うときがあります。同僚との飲み会や知人の結婚式、ライヴやコンサートなど友人が集まるイベントはありますが、会社は辞めて、ライヴ活動はそんなにやっておらず、結婚式も少なくなってきました。展示会がそんな友人や知人が集まる場になればいいかなぐらいで思っています。もちろん新たな出会いも期待しています。

初回は、とりあえずやってみる、でよかったのですが、2回目となると前回とは違う何か面白いことはないかなと考えていました。ネットで調べたところアートの世界では展示会などでステイトメントなるものを書くようです。展示会の意味もあまりわからないのに、どうしようかと困惑してしまいます。しかし、郷に入れば郷に従えで、文章を書くのは苦手ですが、この展示会がより面白いものになるよう、自分なりに一つの作品として書いてみたいと思います。

前置きが長くなりましたが、さて「イミナンテナイ」というタイトルについてです。会社を辞めてから約2年半が経ちました。サラリーマンのときは、なんだかんだいっても生活の中心はやはり会社での仕事で、目的を持って目標に向かって行動していました。会社を辞めて、いざ目的を考えてみると特に思い浮かばず、それを持つこと自体に疑問を感じるようになりました。そうして、とくに目的を持たずただ絵を描いていると、いろいろと疑問が湧いてきました。

3番目はいきなりだいぶ飛躍していますね。そんなことを考えても意味なんてないとは思っているのですが、人の性なのでしょうか、やはり考えてしまいます。ステイトメントで、昨年の展示会後から現在までの間、どういったことを考えて作品を作ってきたか、その過程を作品の説明として書いてみようと思います。その前に、まず本の紹介をしたいと思います。以前は新書を読み漁ることが多かったのですが、最近は、昔読んだわりと分厚い本を時間をかけて読み直すことが多くなりました。展示した作品はその影響を大きく受けています。特に影響を受けた3冊を紹介します。 どの本も最初に読んだとき衝撃を受け、度々読み返している大好きな本です。この3冊は展示会場に置いてありますので興味がありましたらページをめくってみてください。

8月26日(土)と27日(日)はボサノヴァの演奏をフライングワニのお二人と一緒に行います。演奏時間は特に決めずに終日ゆるい感じでやります。8月22日(火)から25日(金)でもオープンの15時から21時30分頃まで全日在廊していますので、お声がけくだされば独りでボサノヴァの弾き語りします。

それでは、作品とその説明を、ごゆっくりどうぞ。

※作品の写真撮影、SNSなどへの投稿、このページなどのリンク、全てOKです。ただし、演奏の録音だけNGとさせてください。

作品の説明

我々は時折説明を要求するが、それは、その説明が与えてくれる内容のためではなく、それが説明の形式を持っているが故に、である、という事を思い起こせ。我々の説明への要求は、言わば建築様式上の要求なのである:その説明は、結局は何も支えない一種の縁飾りなのである。

エリック・サティ

「エリック・サティ」
アクリル, 紙, 66 x 48cm, 2016年11月

エリック・サティは大好きな作曲家です。絵を描く時などよく聞いています。東京に住んでいた昨年は、会社を辞めてから夜の散歩に出かけるのが日課となりました。下北沢はそのコースの一つで、ヴィレッジ・ヴァンガードと古本屋の「ほん吉」と「古書ビビビ」にはいつも足を運んでいました。ある日、ほん吉で『エリック・サティ』の古本を見つけました。著者がジャン・コクトー、訳者が坂口安吾と興味ある名が並んでいたので即買いしました。その本の中からサティらしく頑固で面白く一風変わった見方があったので引用します。

エリック・サティ
ジャン・コクトー著 坂口安吾 佐藤朔訳 深夜叢書社 1976
この本を読んでサティのイメージをこの機会に絵にしてみようと思い、描いてみたのがこの作品です。正直、なんだか2020東京オリンピックのロゴをカオスにしたような作品になってしまいました。

今回の展示会でサティは一つのキーワードになっています。カフェのBGMには超スローでサティを弾くラインベルト・デ・リーウのサティ初期ピアノ作品集をかけてもらっています。会場で演奏するボサノヴァもサティとドビュッシーからトム・ジョビンと繋がっている感がありますし、サティの曲はイージーリスニングのルーツとも言えると思います。後に説明がありますがシリーズで展示しました「家具のビット」もサティが作曲した「家具の音楽」からインスピレーションを受けています。

菊と刀

「菊と刀」 アクリル, 紙, 66 x 48cm, 2016年12月

新宿御苑では毎年11月に菊花壇展を開催しています。新宿御苑は年間パスポートを持っており月に何度も通う場所でした。昨年の菊花壇展は、年末に引越しすることが決まっており、新居から新宿まではだいぶ遠くなるので、今年が最後のつもりで観に行きました。皇室ゆかりの伝統ある菊花壇ということもあり、長い年月の試行錯誤のすえ洗練された飾り付けで、華やかでありながら凛としていて、自分の美意識の根底にある何かを感じました。しかし、なぜか新鮮で異国のものを見ている感覚もありました。

引越しの日が迫ってきたある日、いつものように古本屋巡りをしているとルース・ベネディクトの『菊と刀』を目にしました。この本は、第二次世界大戦中、米国の文化人類学者が日本人の気質や行動を研究しその心理を考察し矛盾した行動を分析した本で、いつか読んでみたいと思っていました。先日の菊花壇展の印象を再確認できるのではないかと手に取り読んでみることにしました。戦時中の日本人と現在の自分とを比較してみて、当時のベネディクトが現在の自分を見たとしても多くの気質は変わっていないと感じるのではないかと思いました。

「燃えつきた地図 - 千鳥ヶ淵」
アクリル, 紙, 66 x 48cm, 2016年4月

「菊」と「刀」の二つの象徴的なものを一つの絵に描いてみたのがこの作品です。昨年の初個展で「燃えつきた地図シリーズ」を展示しました。安部公房の小説『燃えつきた地図』の雰囲気を、身の回りの東京の風景に重ねて描いたものです。このシリーズは単純化した風景図の上に格子柄のゴム版で何回も色を重ねて現実感を薄れさしていきました。この「菊と刀」も少し重なるところがあり、今回は風景を菊に格子柄を刀として重ねてみました。描いた時期は菊は引越し前で刀は引越し後で環境の大きな変化があり、思ったような感じに仕上げられるか不安でしたが、なんとかひとつの絵としてまとめることができ、東京の最後の思い出の作品となりました。

毎年夏は戦争に関する本を読むことにしていますが今年は展示会の準備で忙しいので読む時間がありませんでした。説明を書くにあたり再度『菊と刀』を流し読みしてみました。最後の厳しい指摘は現在も輝きを失っていないと思います。

日本人は現在、軍国主義が輝きを失ったことを知っている。日本人は、世界の他の国々においても事態は同じなのだろうかと、目を凝らして見守ることだろう。もし同じでないとすれば、日本は再び好戦的な情熱を燃やす可能性がある。そして、ことに加担する力があるということを誇示するであろう。逆に、世界各国で軍国主義の光が消えたのであれば、日本は、ある教訓を学習済みであることを証明しにかかるであろう。それは、軍国主義的な皇国のくわだてが名誉につながる道ではないという教訓である。
菊と刀
ルース・ベネディクト著 角田安正訳 光文社 2008

里山

「里山」 アクリル, 紙, 66 x 48cm, 2017年1月

昨年12月に渋谷区笹塚から神奈川県厚木市に新居を構え引越してきました。すぐ近くには実家があり小学校2年生から高校を卒業して1浪し新潟の大学に行くまで住んでいました。大学は3年で中退し実家に1年間戻り、そのあと東京の大学に通うため東京に移り住みました。それから東京暮らしは23年間続きました。東京では家が狭かったためリビングの片隅で絵を描いていたのですが、新居では6畳とちょっと狭いながらも念願の作業部屋が出来ました。その部屋の西側窓からは丹沢山系の端にあたる山々がすぐ近くに見え、その後ろに大山(雨降山)がよく見えます。東側窓からは子どもの頃よく遊んだ鳶尾山が見えます。

地元に戻ってきて人間にも帰巣本能というものがあると思いました。今まで地元が特に好きと感じたことはありませんでした。地元を離れて、新潟では山々は遠くに見えるものの北に向かって川が流れることに非常に違和感を覚えました。東京では山々は全く見えず、深夜になっても街の音ばかりで鳴り止むことはなく、便利で刺激的ではあるものの、どこか物足りなさを感じていました。地元に戻ってきて山々を見て帰ってきた実感がしみじみ湧いてきました。好き嫌いという好みの感情ではなく、これは帰巣本能なのではないかと感じました。

この作品はそんな山々の冬の姿を描いたものです。山々は落葉広葉樹が多く、夏は緑豊で瑞々しく力強い生命力を見せつけますが、冬になると葉を落としそれを支えていた舞台裏の枝々があらわになり荒々しく力強い生命力を見せつけます。そんな姿を新たな場所での描き始めの題材に選びました。

われわれは自分たちがちっぽけな惑星に住む存在でしかないことを知っている。ビックバンにまでさかのぼる時空のゆがみの中で、何メガパーセク(1メガパーセクは約31兆キロメートル)という膨大な空間に散らばった数十億の銀河の中の、ごくありふれた一つの銀河の、その片隅にある小さな惑星上の存在にすぎない。また、われわれは単なる偶然の産物であると教えられる。目的も価値も、人間が勝手に作り上げたものにすぎないという。悪魔や神がいなくなり、宇宙は物質と光と闇のための味気ないすみかとなり、まったく冷徹な場所となってしまった。われわれはせわしなく働く。だが過去の人類が持っていたような宇宙の中のくつろぎの場所を、もはや見失ってしまったのである。
自己組織化と進化の論理
スチュアート・カウフマン著 米沢富美子訳 日本経済新聞社 1999

朝焼け

「朝焼け」 アクリル, 紙, 66 x 48cm, 2017年2月

新居の2階にあります作業部屋の西側窓からは高取山がすぐ近くによく見えます。高取山と言っても日本には沢山の高取山があります。近くの丹沢山系にも同じ名前の山がありますが、こちらは、どちらかというと名もなき山です。この高取山には砂利採掘場があります。近年、特に東北大震災があったからでしょうか採掘が急速に進んでいるように見えます。採掘場は自宅から見える反対側の山の斜面にありますのでこちら側からはその全容は見えません。しかし、山の稜線は子供の頃に見た形とはだいぶ変わっていて、高さも低くなった気がします。山の頂上付近には採掘により岩肌がむき出しなった部分も少し見えます。そして稜線には奇妙な枝ぶりの木がたくさん立っています。たぶん、以前は山の中腹に立っていたのが、すぐ隣まで採掘が進み、いつのまにか過酷な環境の稜線に立つことになってしまったんでしょう。その枝ぶりは、あたかも空を目指して手を挙げ助けを求めているように見えます。

この作品はそんな高取山が朝日に染まり赤く輝いている風景を描いたものです。真冬の時期でしたので日の出は遅く、早起きは苦手ですがなんとか7時前に起き、刻々と色が変わる様子を見ながら描きました。この先、高取山がどう変わっていくかわかりませんが、今現在の風景を絵として残しておこうと思いました。しかし、残せなかった風景があります。それは子供の頃よく遊んだ中津渓谷です。2000年に宮ヶ瀬ダムが完成し人口湖に沈みました。東京に住んでいた時は、新しい交通網ができ、建物でき、どんどん変わっていく様を、どちらかというと楽しんで見ていた気がします。近くの鳶尾山には展望台があり、家から歩いて30分くらいで行けます。展望台からは関東平野が一望でき、大島、湘南平、相模湾、江ノ島、横須賀、横浜市街地、東京都心が見えます。その東京都心の風景は建物は増えているものの子供の頃に見た風景とあまり変わっていません。いっぽう、地元は渓谷が人口湖となり山が消えてだいぶ変わってしまいました。

もしわれわれの最善の行動の結果がどうなるかがわからないものだということに、新たに関心を持つようになれば、われわれは一つ賢くなったと言えよう。まず、間違いないとか、遠い先まで確実だと言った考えはあきらめたほうがいい。われわれは世界を一つにしようとしている。その中で、われわれの最善の努力が、まったく先の見えない生き方への変更を余儀なくされる状況を最終的には作り出してしまうとしても、われわれにできることは自分の力の及ぶ範囲で賢明であることである。
自己組織化と進化の論理
スチュアート・カウフマン著 米沢富美子訳 日本経済新聞社 1999

芽生え

「芽生え」 アクリル, 紙, 66 x 48cm, 2017年3月

新居のすぐ近くには荻野川が流れています。子供の頃よく魚釣りをして遊んだ川です。その土手沿いを息子と一緒に散歩します。川沿いを歩いていくと田んぼの脇に草地の広場があります。その草地の脇には鳶尾山に降った雨が湧き出ていて小さな溜め池もあります。いつもシラサギやアオサギやカワセミが餌を取りに溜め池にやってきます。散歩はだいたいこの草地まで歩いて小一時間過ごしてまた土手沿いで帰ります。昨年末の冬に引越してきてからこの草地によく来ていますが、だんだんと春も近くなり様々な草が芽を出してきました。数日行かない日が続くと草地の様子は一変します。息子もだいぶ気に入ったようで草や虫をじっと観察していたかと思うと、草をひっこ抜いては湧水の小川に流したり、溜め池にいろいろなものを取っては投げ入れたり、アシの枯れ草で虫の家を作ったり、ぐるぐると草地をただ走り回ったりと、いろいろな遊びをしてなかなか帰らせてくれません。この作品はそんな草地の初春を描いたものです。

この作品にはもう一つの題材があります。それは『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の第3章「図と地」です。この章を簡単に説明する能力はないのですがやってみます。美術と音楽の特徴を織り交ぜながら、ある数学とは異なる形式システムで素数の定理を表現しようとしています。美術との関連について語っている箇所を引用します。

美術の方で有名な図と地との区別を思い出させる。図、あるいは「積極的な部分」(人の形、文字、あるいは静物など)が枠の中に描かれるとき、必然的な帰結として、それを補い合う形──「地」とか「バック」、「消極的な部分」などと呼ばれる──も描き出される。多くの絵画では、図と地の関係は大した役割を果たしていない。芸術家は図に比べて地の方にはずっとわずかな関心しか示さない。しかしときには、芸術家は関心を払う。
ゲーデル、エッシャー、バッハ
ダグラス・R・ホフスタッター箸 野崎昭弘 はやし・はじめ 柳瀬尚紀訳 白揚社 1985
美術や音楽の部分はすぐにわかるのですが、形式システムの問題はもっと複雑になってきます。素数(図)を合成数(地)以外のものとしても表そうとしてもうまくいかないのです。合成数とは4(2×2)、6(2×3)など2つ以上の素数の積で表すことのできる自然数のことです。それはゲーデルの定理が示したように、その形式システムの外に出ないといけないのです。いいかえると、図と地は相互に補うものとしての正確な情報を持っていないのです。
形式システムの中には、その消極的な部分(非定理の集合)がいかなる形式システムの積極的な部分(定理の集合)にもなりえないものが存在する。

再帰的に可算であるが、再帰的ではない集合が存在する。
ゲーデル、エッシャー、バッハ
ダグラス・R・ホフスタッター箸 野崎昭弘 はやし・はじめ 柳瀬尚紀訳 白揚社 1985
この図と地の関係を、草地に置き換えて絵として描こうとしました。

草地にはいかなる図も存在しません。それを人が見たとき、絵に描いたとき図となり出現します。草地の草や虫や鳥や土や水そして人等々なる環境はそれぞれが補い合い成り立っています。また、目に見えていないもの、これから芽吹く草花や、蠢きだす虫等々の環境とも密接に補い合っています。となりの田んぼには稲という図(積極的な部分)があります。ネオニコチノイド系の農薬を使いその地(消極的な部分)を積極的に消そうとしています。ミツバチがいなくなった原因との因果関係が調査されています。その影響はその外から見てみないとわかりません。

いざ絵を描き始めてみると問題の大きさを再認識しました。自分の絵の傾向として、描き込み過ぎでオールオーヴァー(絵画用語で「全面を覆う」)になってしまいがちで図と地の対立はなくなってしまいます。さらにレイヤーをどんどん重ねていき明白な対立をぼやかしてしまいます。自分の好きなように描いていると対立が発生しないのです。草間彌生の絵は図を描きながらそれを地として描いている部分があるように見えます。この人はいったい何を見てこの部分を描いているのか驚かされます。全体を描きながら部分を描く、部分を描きながら全体を描く、自分の美意識を否定しながら描くを繰り返しました。最後に中心部を描いたのですが、どうして人は興味を引きつける中心がないと意味がわからなくなってしまうのか疑問に思いながら、少しやけくそになって描きました。描き終わってみると大したことのない絵なのですが、この単純な絵に1ヶ月も要してしまいました。この作品は悩みに悩み通した意味(経験)しか持っていませんが、この展示会を代表する作品として選びました。

メッセージ 6E

「メッセージ 6E」 アクリル, 紙, 66 x 48cm, 2017年3月

人類から地球外知的生命体へのメッセージとして人間の姿や記号などが描かれた銘板が1972、73年に宇宙探査機パイオニアに取り付けられ打ち上げらました。1977年、今度は世界の様々な音楽や言葉、自然の音など収録されたゴールデンレコードがボイジャー探査機に搭載され打ち上げられました。ボイジャーの旅立ちに向けてのカーター大統領の公式コメントは有名です。

われわれは宇宙に向けてメッセージを送った。銀河には2000億個もの星があり、いくつかの星には生命が住み、宇宙旅行の技術を持った文明も存在するだろう。もしもそれらの文明の一つがボイジャーを発見し、レコードの内容を理解することができれば、われわれのメッセージを受け取ってくれるだろう。われわれはいつの日にか、現在直面している課題を解消し、銀河文明の一員となることを期待する。このレコードではわれわれの希望、われわれの決意、われわれの友好が、広大で畏怖すべき宇宙に向かって示されている。
カーター大統領の公式コメント 1977
現在、それぞれのメッセージは太陽系を離れて旅を続けています。

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の第6章「意味の所在」にゴールデンレコードが取り上げられ、異星文明がこのメッセージをどのように解読し理解するのかを通して、知能とは何であるのか考察しています。

意味はメッセージに固有なものなのか、 (省略) 意味はつねに心あるいはメカニズムがメッセージと相互作用することによって作り出されるものなのか、という論争である。後者の場合には、意味とは特定の場所に所在しているともいえず、またメッセージが何らかの普遍的あるいは客観的な意味を持つともいえないだろう。なぜなら、それぞれの観察者は彼なりの意味を個々のメッセージにもたらすことができるからである。しかし前者の場合には、意味はその所在と普遍性を併せ持つことができる。
ゲーデル、エッシャー、バッハ
ダグラス・R・ホフスタッター箸 野崎昭弘 はやし・はじめ 柳瀬尚紀訳 白揚社 1985

いつも悩ませている「作品に意味があるのか」という疑問に対して、それでは、はじめから何らかの意味(メッセージ)を持たせて描いてみようと試みたのがこの作品です。もちろん地球外知的生命体にも伝わるものとして考えてみました(笑)。数学関連の本には美しい図がたくさんありますが、この作品はグラフ理論で6つの辺(Edge)によるグラフ・パターンを全て描いています。並べ方は「美しい」とはなんだろうと考えながら、随分時間をかけて対称性やら同類性を考慮に入れ検討しました(検討時のメモ書きを本と一緒に置いておきます)。グラフのパターンという普遍的なものと、自分の「美しい」という感性的なものを併せ持つ絵を描いてみました。もしウィトゲンシュタインにこの絵を見せることができたら「さて、だからどうだというのか?」と言われそうですが、その絵に込めたメッセージとは、「宇宙には知能を持った生命体が存在する」です(笑)。

家具のビット

「家具のビット」 デジタル画像, 2017年4月

サティの初期ピアノ曲を聴きながら絵を描いていると、特に永遠と点を描くような同じ作業の繰り返しの時、不思議な体験をすることがあります。音楽が流れ始めることにより時間が流れ始めものごとが動き始めます。部屋の外の音、鳥や虫の鳴き声、風や雨の音、人の生活音、が音楽と結合し一つの空間を作ります。それは曲ができた18世紀末のパリの雰囲気なのかもしれません。その中で細かい繰り返しの作業を続けていると、ある時、映像が見えてきます。実際は絵を見ているので「見える」ということではないのですが、「思い浮かぶ」とも少し違います。その映像はもう何十年前に見た夢の風景や、実際に見た風景だったり、またそのどちらとも言えない風景であったり、とっくに忘れ去ってしまった映像が突然脈略もなく蘇ってきます。作業に集中していないとその映像は消えて無くなってしまいます。サティの音楽は、聴かせようと主張せず、音楽によって周りを取り込み空間を作り出す、そんなところに憧れてしまいます。自分の描く絵に目を向けると主張が強すぎて全然違うものに思えます。なんとかサティの音楽のような絵が描けないかと考えました。そこで、自分で描こうするのは諦めて、自分はプログラムを作り、コンピュータに描かせたらどうかと考えました。

「家具のビット」 デジタル画像, 2017年4月

コンピュータで描いたデジタル画像をそのままプリントアウトしてもサティのような雰囲気を持った絵はできないと思い、どうしたらよいかと考えていると、ずいぶん前に買った大量のナノブロックが目に入りました。ブロック同士をつなげる突起は直径4mmの円筒形で間隔も4mmと大きさも密度もちょうどよく、これでドット柄の版画を作ってみようと考えました。ドット柄でわりと小さいパターンで面白いものはないかと考え、地味に研究してきた複雑系の中で1次元セルオートマトンという手法を使ってパターンを作り出してみようと考えました。

複雑系やセルオートマトンを知らない人にはよく分からない説明かと思いますが、雰囲気だけでもと思いなるべくやさしく書いてみることにします。1次元セルオートマトンは、通常、2つの状態(活性と非活性)を持つランダムなリストをある規則に従って変換して、1次元のリストの変化を2次元の平面に上から下へ並べて図示します。今回は、より複雑なパターンを生み出すため状態数を増やしたり、規則の影響範囲を増やしたりしてみました。これをやりすぎると組み合わせが莫大に増えすぎてよりよいパターンを探すのは大変になってしまいます。試行錯誤した結果、状態数4つ、影響範囲がすぐ隣まで(1つ)、左右対象とする、という条件で探すことにしました。これでも規則は4の40乗個ありの1の後ろに0が24個つく莫大な数となります。統計や機械学習の手法で美しいパターンを作り出す規則を探すプログラムを作り、そこから計算されるパターンで気に入ったものを自分の感覚で選別してまた計算を繰り返すという作業を何日も繰り返しました。その作業は、何が「美しい」と感じるのかを自分自身に問いかける時間でもありました。また、状態数が4つのリスト構造といえばDNAが思い浮かびます。計算されたパターンの幾つかは何か意味を持ったものに見えくることもありました。そして、そのパターンを生み出す規則の探索はあたかも生命に関する謎解きをしているようでもありました。

さて、様々なパターンが出来上がったところで、ナノブロックで版元を作り刷ってみたのですが思ったようにならず、結局、薄く刷ったものにさらに筆で塗っていくという面倒な作成方法を取りました。またパターンの4つの状態全てを刷ってしまうとなんだか主張が強すぎるので、そこからよりよいパターンの2つを選択しました。やっと納得のいく1枚が出来上がって本棚に飾りました。本の背表紙の中に溶け込んでいき、なんだか自分の作った作品ではない気がしました。(後日談、この展示もなんだか本棚みたいになってしまいました。思想を生み出す空洞がありません。)サティが1920年に作曲した「家具の音楽」という曲があります。「生活の中に溶け込む音楽」という思想を代表する作品でもあります。タイトルの中の「音楽」をコンピュータの単位である「ビット」に置き換え「家具のビット」と名付けました。

散逸構造

「散逸構造」アクリル, 紙, 48 x 66cm, 2017年5月

「家具のビット」で多種多様なパターンを見てきましたが、すべてのパターンを見尽くすことは到底できません。美しいと感じたパターンから突然変異を発生させ、より美しいのもへと進化させていきました。突然変異だけですと類似性よりそのうちに飽きてきてしまいます。そこでまたランダムに闇雲に探し始めます。1980年代にウルフラムがこのパターン(セルオートマトン)の挙動を4つに分類しました。簡単に言いますと

  1. まったく変化がない、一定
  2. 同じ模様の繰り返し、周期
  3. カオス、無秩序
  4. カオスの縁、上記のどれにも属さない
闇雲に探すとほとんどが4つの分類の中の「カオス」で、探し求めている美しいパターンはだいたい「カオスの縁」に当たります。スチュアート・カウフマンは『自己組織化と進化の論理』で、生物の進化や共生仕組みや、人の政治や経済活動、そして宇宙までもが、「カオスの縁」を中心に「周期」と「カオス」の間を行き来していると述べています。美しいパターンを探す行動自体も同じようで、なんだか大きなシステムに組み込まれたものなのではないかと思ってしまいます。

「家具のビット」は小さめのパターンでしたが、画面を大きくすると美しく見えるパターンはまた違ってきます。この作品は偶然発見(全てがそうですが)したパターンを同じような手法で大きな紙に描いたものです。絵の下から上の方向でパターンが変化していきますが、下の方の無秩序な状態から変化していき上の方の秩序だったパターンに落ち着きます。この作品のもう一つのイメージ元となっていますのが日本の文様の青海波で、特に甲州印伝の青海波をイメージしました。世の中には様々な文様があります。あたかも文様が新しく生まれる一瞬を捉えたようなこのパターンの魅力にとりつかれました。 それは北斎の「富嶽三十六景」の巨大な波とも似ていると思いました。自分の創造力でこう言ったパターンを作り出すことはできないと思いますが、コンピュータを使えばたやすくできてしまうのです。

今回の展示していませんが、この作品の前にも同じような作品を描きました。パターンを選び手作業で紙に写し変えていく作業は2週間以上かかりました。このぐらいの大きさになると、どこを描いているのか見失いがちになり、最初のうちは何度も写し間違えては修正して嫌になることもありました。しかし、続けているとだんだんとパターンの規則性が解ってきて間違えることも少なくなりました。そして何に美しいと感じたのかが解ってきました。この作品に取りかかる時、また無意味な作業を繰り返すのかとも思いましたが、いざ次のこのパターンに向かってみると確かにパターンを見る目が変わったことに気づきました。もう一度やってみたら更に変わるかもと思い作業に取り掛かりました。意味あることなのか無意味なことなのか、その結果どうなるかわからないからこそ、やってみる価値はあるのかなと思うようになりました。スチュアート・カウフマンは『自己組織化と進化の論理』でこう人生観を語っています。

それでは、あなたにすてきな人生観を教えてあげよう。ベストを尽くしなさい。朝起きて、コーヒーを飲み、コンフレークを頬張り、地下鉄にとび乗り、込みあったエレベーターでオフィスへ上がり、ほかの人たちが積み上げた書類の山にさらに書類を積み、あなたの人生の選択がもたらしたはしごを何でもいいから登りなさい。そして最後にあなたは何を得るのか。舞台の上のほんのひとときである。厳しいものだ。でも世の中のすべての動植物にとっては、それが精一杯のことなのである。
自己組織化と進化の論理
スチュアート・カウフマン著 米沢富美子訳 日本経済新聞社 1999

マルチチュード

「マルチチュード」 アクリル, 紙, 40 x 85cm, 2017年6月
「マルチチュード素描」 デジタル画像, 2017年5月

前作品でちょっと嫌になってきたところもありましたが、まだまだパターンへの探求は続きます。美しく見えるパターンの裏には純粋なパターンの美しさではなく何か他の情景が思い浮かぶからなのでは、という疑問がありました。そこで、パターンをなるべく崩さず発展させて、別の情景を描いてみようと試みたのがこの作品です。

「乗換ターミナル」 アクリル, インク, 紙, 42 x 89.4cm, 2007年10月

最近はあまり人を描かなくなったのですが、10年ほど前に、新宿駅のプラットフォームで電車を待つ人を描いた「乗換ターミナル」という作品がありました。かなり気にっていてずっとリビングに飾っていました。5年ほど前に出展して手放してしまいました。パターンを探しているとその情景と同じようなものを発見し、また描いてみようと思いました。細かく一つ一つ描いていると、手癖で描くような形ではない様々な形に出会いました。また普段なら細かく描かない画面からはみ出しそうなところにごちゃごちゃと描いたりと新鮮な感覚がありました。完成してみると最初の「乗換ターミナル」のイメージからはだいぶ違ったものとなってしまいました。自分の感性もだいぶ変わったんだなと実感しました。タイトルは変更してトニ・ネグリとマイケル・ハートの『<帝国>』から頂きました。

マルチチュードの目的の第一の側面は言語とコミュニケーションの意味にかかわっている。コミュニケーションがますます生産の織物になり、言語の協働がますます生産的身体性の構造と化していくとすれば、言語の意味と意味作用への統制はいっそう政治闘争にとっての中心的争点になっていくだろう。
<帝国>
アントニオ・ネグリ, マイケル・ハート著 水嶋一憲 酒井隆史 浜邦彦 吉田俊実訳 以文社 2003
2008年、アントニオ・ネグリは東大・京大・東京芸大の3大学で、グローバル化時代の労働問題などをテーマに講演する予定でしたが入管法等の問題で入国できず中止となりました。その後、2013年に来日を果たしました。

拡散

「拡散」 アクリル, 紙, 66 x 48cm, 2017年6月

新居は38年前に作られた鉄筋コンクリートの長屋で、今風に言うと2階建てのメゾネットタイプのマンションです。高度経済成長期に立てらた当時、だいぶ西洋を意識して設計された建物ですが、現在はちょっとレトロな感じのする古い建物です。長屋の各家には表と裏に庭が付いています。表は小さいながらもちょっとしたバーベキューができるくらいの広さがあります。裏の方は狭いながらも畑にしようと冬場から土を掘りおこし耕し始めましたが、表の方は初春まで手をつけずにいました。初春になり様々な雑草が生えてきて、もともと植えてあった西洋の花々も咲き始めました。どんな庭にするか色々検討し、玄関前の門だけ西洋風にして、あとは和風にしようということになり、やっと手を入れ始めました。西洋の植物を抜き取ったり植え替えたり、庭のレンガを抜き取って玄関前の自転車置き場をタイル張りに変え、川から拾ってきた石を代わりに置いたり、実家から和花などの植物をもらったり、木の苗を買ってきて植えたりと、縁側を作ったりと、少しづつ手を入れ始めました。雨季に入ると雑草の勢いがますます増してきて、次から次へと新たな雑草も生えて、雑草取りをしても追いつかなくなってきました。その頃、いつもの川沿いの散歩コースでも春先に育った植物がその種を撒き散らしていました。カラスノエンドウは晴れているとパチンとバネのようにさやがはじけます。黒い種子を撒き散らすそのユーモアな姿を息子と一緒に観察しました。また特定外来生物のナガミヒナゲシも人や車が通る道端に結構な勢いで繁殖しており、その種子を撒き散らそうとしていました。

ちょっとコンピュータをいじりすぎたせいか、面倒な計算をしすぎたせいか、もうちょっと自由に絵を描きたいと思い、都会ではあまり触れることがなかった種を撒き散らす風景を題材に選びました。またここ数ヶ月やってきたドッド柄を種子に置き換えてみたらどうなるのか実験してみることにしました。

「拡散」というとSNSなどネットの世界でよく使われるようになりましたが、種子の拡散は規模が違い桁違いに徹底的です。また同じく「炎上」という言葉も使われます。裏庭にはゴーヤやトマトやバジルの他に葉物野菜の種子も撒きましたが、どこからか芋虫がやってきて、まず美味しい水菜が炎上し、次にルッコラが炎上して全滅しかけましたが、ある時、トカゲがやってきて、芋虫が炎上して全滅しかけました。そしてまた葉物野菜が勢いを取り戻すと、また芋虫がやってきて…を繰り返しています。

共進化する状況は捕食動物と非捕食動物の間でも見られる。(中略) このような永遠に続く共進化の形態は「武器開発競争」とか「赤の女王効果」などと呼ばれてきた。シカゴ大学の古生物学者リー・バン・バーレンは後者の呼び名を、赤の女王が不思議の国のアリスに「同じ所に居続けるためには、力の限り走らなければならないのよ」と言った言葉から引用したものである。共進化の武器競争では、赤の女王(つまり、まわりを取り巻く環境の悪化)が常に猛威を振るっており、すべての種がその適応度を単に保つために、自分たちの遺伝子型を永久に変化させ続けるという終わりのない競争をしているのである。
自己組織化と進化の論理
スチュアート・カウフマン著 米沢富美子訳 日本経済新聞社 1999

侵入禁止

「侵入禁止」 アクリル, 紙, 66 x 48cm, 2017年7月

この作品は子供の頃に見た風景をもとにしています。鳶尾山にはよく友達と連れ立って谷に基地を作って遊んだり、また独りで探検をしたりしていました。そこまで山深くはない山ですが、ある時、独りで小さな沢伝いに谷を登って源流まで行こうと、草をかき分け道無き道をどんどん進んでいきました。進んでいくと、普段は見たこともない植物が群生していたり、しだいに周りに殺気を感じるようになりました。足を止めふと周りを見回してみると空気が全く変わっており、ここから先は人が入ってはいけない場所ではないのかと恐怖を覚え、すぐに引き返しました。知り尽くしていると思っていたすぐ近くの山に、こんな全く違う世界の発見は驚きでした。

「家具のビット」から続くパターンの探求ですが、ずっと気になっていたパターンがありました。これを最後にしようと取り組んでみたのがこの作品です。そのパターンは、まるで人を寄せ付けない木立のようなもので、子供の頃の体験を思い起こしました。木立のパターンを描く前の下地に、葉や草や緊迫した空気を木立のパターンが重なった状態を想像しながら描いた後、全体の色調を調整しながらパターンをまた手作業で写し取り重ねていきました。現在、鳶尾山にはハイキングコースができコース沿いは下草が刈られ桜などが植樹され整備されていますが、遊んでいる子供は見られず、コースから少し外れると昔より鬱蒼として人があまり入っていない気がします。少しだけ歳をとった自分はまたあの場所に行くことはないでしょう。

未来を予知する力そして支配する力として科学を崇めるベーコン以来の伝統は、一方で我々から畏れ敬う気持ちを非科学的だとして奪ってしまったのではないだろうか。もし自然が本当に我々のものであり、自然に対しわれわれが命令を下し支配できると考えるとしたら、それは自然を侮辱していると言えよう。力は最後には崩壊する。
自己組織化と進化の論理
スチュアート・カウフマン著 米沢富美子訳 日本経済新聞社 1999

ゴスパーのグライダー銃

「ゴスパーのグライダー銃」 デジタル画像, 2017年7月

自分だけに、あるいは特定の人だけに、意味(価値)を持つ絵というものがあると思います。身近な例では子供が親に宛てて描いた絵などがあります。アール・ブリュットの中には、他人にはまったく意味不明で、自分のためだけに描いたと思われるような作品が多くあります。そして、ウィトゲンシュタインは自分自身の病の治療のために哲学したと言われています。絵を描く時、それは自分のために描いているのですが、他人がその絵を見ることも少なからず意識してしまいます。この作品はまったく自分のためだけに作成したもので「家具のビット」を作成している時にふと思い浮かびました。

「ゴスパーのグライダー銃」は一連の作品で使った手法であるセルオートマトンで1970年に数学者コンウェイが考案し、その後コンピュータ・サイエンス界で大反響を呼んだライフゲームの一つのパターンです。ライフゲームは格子状の平面で生と死の2つの状態を持ち、死の状態にある格子の周り8つの格子に生の状態が3つある時、そこに生命が発生し死から生の状態に変わります。また、生の状態にある時は周りに2つ、もしくは、3つ生の状態がある時、生き延び生の状態を維持します。それ以外の時は、孤立、または密集のため、死の状態に変化します。生物の発生に似た単純な規則(モデル)で計算を繰り返します。驚くことに本当の生物を見ているような様々なパターンが発生します。コンウェイは無限に生が増えて行くパターンは存在しないと予想し、これを証明もしくは反証したものに懸賞金50ドルをかけました。「ゴスパーのグライダー銃」はMITの人工知能研究グルーップが発見した反証パターンで、無限に生が増えるパターンが存在することを証明しました。またその後の研究により、この単純な規則(モデル)はコンピュータを再現できる(チューリング完全)ことが解りました。自分がライフゲームを知ったのは中学生の時で、「ゴスパーのグライダー銃」を知ったのは高校生だったと思います。どの本で読んだのか覚えていませんが、「もし広大なライフゲームの平面があればランダムな生と死の状態から生命が発生するだろう。そして、それはライフゲームの宇宙と呼べるだろう」みたいなことが書いてありました。その当時、受けた衝撃はもの凄いものでした。人類が新しい宇宙を作り出しそのシステムに乗り移り生死を越えて生き続け現在のこの宇宙の終わりを見届けるだろうと、発想はどんどん広がって行きました。

作業部屋の本棚にはライフゲームについて書かれた本が何冊かあります。本のページをめくればこの「ゴスパーのグライダー銃」の図を見ることができます。またネットで検索すればすぐ見つかります。しかし、物として手元に置いておきたいと思い、「家具のビット」と同じドット柄で絵を作成しました。絵というよりかは単純な模様、もしくは単なる図に見えますが、部屋に飾って観ると逆に絵から見られ問いかけられているような感覚がある私的絵画です。

私的言語

「私的言語」 デジタル画像, 2017年8月

セルオートマトンの面白さを伝えるには、規則により様々に変化するパターンを動画として見せるのが手っ取り早いと思います。セルオートマトンの手法はスマホの自撮りアプリなどでよく使われる画像のエフェクト処理に似ています。肌をきれい見せるノイズ除去、焦点を擬似的につくるぼかし、漫画風にするエッジ抽出などです。そこでセルオートマトンでわりと有名なRugという規則(モデル)に若干の修正を加えて、自撮りした画像に順次エフェクト処理を繰り返していき、その変化を楽しむ作品を作ってみようと考えました。エフェクトの手法は、ぼかし処理に周期的な動きを促すためのリミットを設け、ウィルス感染をモデル化したようなものとしました。ぼかしのカーネルにはガウシアンを使いたかったのですが、処理スピードの問題で簡単な平均カーネルを使用しました。

作っている最中に気がついたことがありました。PCのカメラで何回も自撮りして動きを確かめていたのですが、自分が右に動くとPCの画像は左にと、当たり前のことですが向き合っているので左右対称になっていることに違和感を感じました。普段、自分の姿は鏡で見ているので、PCの画像も鏡を見ている感覚を期待していたのだと思います。写真の自身の姿に違和感を感じるのもこれが原因ではないかと思いました。もしかして自撮りアプリも左右反転になっているかもと思い調べてみたら、やはりそうなっていました。この作品の自撮りも左右反転させています。人間はかなり錯覚してものを捉えているんですね。

画面をタップすると白黒にエフェクト処理された自身の画像が表示されます。最初は「意味のある」自身の画像が、エフェクト処理を繰り返して行くうちに徐々に消えて行き、「意味のない」カオスや周期的な模様にのみ込まれて行きます。カラーにするとかなりエグい画像になってしまい、紙に書いた文字をイメージさせるモノクロ画像にしました。。絵は私的な感覚の表出だと思います。しかし言葉となると、ウィトゲンシュタインは『哲学的探求』で「私的言語」は成立しないと言っています。

私の内的体験を記述する言語であり、したがって、私自身の目が理解可能な言語(つまり、私的言語)については、どうか? この場合、如何にして私は、私の感覚を言葉で表すのか? ──我々が通常にするように、であろうか? それ故、私の感覚語は、私の感覚の自然な表出と結合されているのであろうか? そうであるとすれば、私の言語は「私的」ではない。他人も、私のように、私の言語を理解する事が出来るであろう。

私的体験に於いて本質的な事は、実は、各人がそれぞれ私的体験の固有な事例を持っている、ということではなく、他人もまたこれを、或いは、何か別のものを、持っているのかどうかを、誰も知らない、ということである。
『哲学的探求』読解
ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン著 黒崎宏訳・解説 産業図書 1997

もしも、アンドロイド端末を持っているのであれば、こちらからアクセスしますとご自身の携帯端末で見ることが出来ます。iPhoneでも今秋にリリースされと噂されているiOS11では動作するようです。まにあわなくて残念です。アクセスする前に、カメラを使用しますのでブラウザのセキュリティー設定にてカメラの使用を許可してください。アクセスしますと上部に操作用のボタンが表示されます。FULL|ESC: 全画面表示の切替、PLAY|STOP: 動画の再生と停止、HIDE: ボタンの非表示です。最初は白一色ですのでまず画面をタップしてみてください。カメラの動作に時間がかかることもありますので、何も反応がない場合は時間をおいて再度タップしてみてください。それでも反応がなければ残念ながら動作しない環境の可能性があります。かなり処理が重いので端末によっては遅かったり、表示し続けると熱くなったり、電池を消耗し過ぎる恐れがあるので注意してください。

イミナンテナイ

「イミナンテナイ」 デジタル画像, 2017年8月

この作品は、今回の展示会の看板用に作成した、ナノブロックと「家具のビット」と同じ手法で作成した2枚の絵からなります。ブロック遊びは子供の頃からよくしていました。ブロックは手軽にものづくりができ、作る楽しさを味わうには最高のものだと思います。どちらかというと出来上がった物を眺めて楽しむより、作る工程そのものを楽しむ遊びであり、壊される前提のもとに作る楽しさはあると思います。もともとは「家具のビット」の版元もそれなりに面白いもで、これはこれで作品を作りたいと思っていました。ちょうど、新しくなったギャラリーカフェ3には道路側に展示スペースがあったので看板として作ってみようと考えました。看板は文字とパターンの2つのレイヤーで成り立っていますが、その2つのレイヤーを版元として刷ったであろう2枚の絵を作りました。版画は左右対象ですので版元を作り刷っては壊しを2回繰り返し、そして、左右対称に最終的な看板を作成しました。展示会という一時的なイベントのために作られ、終わったらまた壊される運命にある作品です。壊される運命にはありますが他の作品と違って看板という明確な意味(目的)を持っています。

ステイトメント

「ステイトメント」
デジタル画像, 2017年8月

「ご挨拶」で作品としてステイトメントを書いてみる、と書きましたが、どうも電子情報であるWEBページですと作品らしくないと思ってしまいます。現在では古い習慣かもしれませんが、好きな本は電子書籍ではなく、必ずものである本を買います。そこで、作品たらしめるために、ナノブロックでこのステイトメントに誘導するQRコードを作成しました。QRコードはドット絵のようで、しかも、コード化された内容を持っています。アプリで認識するか不安だったのですが、認識率は悪いものの、なんとか認識してくれました。多分、ナノブロックの凹凸の影が認識率を下げているのではないかと思います。

ブロックを組み立てていると、この作品の面白さに気がつきました。作品自体は意味(内容)を持たず意味(内容)の所在を示す意味(機能)を持っています。どちらかというとこのページが作品でQRコードは言わば作品のそばにあります説明書きのようなものです。どちらが主なのかよく解りません。この作品の説明にはこの作品(QRコード)のデジタル画像が表示してあります。それはこのページ自身を示しています。哲学的に言うと自己言及、コンピュータ用語でいうと自己参照になっています。絵画ではマグリットがその手の絵を多数描いていて有名ですね。

蟹のカノン

「蟹のカノン(英語版)」
デジタル画像 2017年8月

最後の作品は、何度か紹介してきました『ゲーデル、エッシャー、バッハ』で登場します亀とアルキメデスの会話を引用した作品です。先の「ステイトメント」は自己参照していると書きましたが、コンピュータの世界では自己参照というとその応用例としてリスト構造体や再帰処理があります。最後の作品は第8章「字形的数論」の導入部分にあります亀とアルキメデスの会話をリスト構造体風に作ってみました。その最初の参照がナノブロックで作成したQRコードになっています。会話だけでも十分面白いと思いますので先にネタバラシをします。参照先のページには再び次の参照を示すQRコードが表示されるというリスト構造になっています。その会話の内容は前後対称となっており、まるで版元と版画のようでもあります。さらに周期的でウロボロスの竜になっています。

QRコードは紙面などから端末にデジタル情報を伝える機能を持っていますが、その端末画面に表示されると困ったことになります。画像保存してアプリに読み取らせることもできますが、できれば2人で交互に携帯で読み取って楽しんでもらいたいと思います。もしも、独りの場合はこの会場でスマホを持っている誰かに声をかけもらえればと思います。展示したナノブロックで作成した作品は日本語版ですが、原文の英語版も作成しました。英語版はこの説明にありますQRコードを誰かに読み取ってもらって下さい。この作品はユーモアがあるだけで作品自体の意味はよく解りません。

最後に

展示会の構想を始めたのは3月くらいだったと思います。このステイトメントは8月に入ってから書き始めました。文章が拙いのは否めませんが、作品を作っていたときのことを思い出して書く作業は、辛くもあり、思った以上に楽しくもありました。そのせいか、最後の方は少々悪ふざけが多くなってしまいました。読み返してみると、地元に帰ってきたせいか過去のことを振り返ることが多かった感じがします。作品のことを考えたり、絵を描く時間は、内省の時間や実験の時間であり慣習や常識や美意識を疑い、そこから抜け出す切り口を開いてくれます。その過程を書けたかどうかは、ちょっと疑問が残ります。

最初に目的は持っていないと書きましたが、今回の展示会に向けて目標は持っていました。それは、とりあえず持っているものを出し切りさらけ出す、というものでした。あまり社交的でなく、恥ずかしがり屋な方なので、普段は人前に出ることや話すことは好きではありません。音楽の演奏は、その一瞬に向けて集中力を高め、やるしかないというある種の開き直りでさらけ出すとこにより、普段気づかなった自分自身に気づくことがあります。そこから、また次が始まります。しかし、絵を描く行為はベターっとした長い時間の中で、ライヴなどの演奏のときのような集中を続けることはできず、妥協してしまったり、嫌な部分を隠してしまったり、温存してしまったり、してしまいます。簡単に言うと自分に嘘をつくことができてしまいます。地元へ引越し生活環境も変わったので、展示会というこのタイミングで音楽の演奏のように出し切り、次に進みたいと思いました。そして、結果はどうでしょうか、意味はあるんでしょうか、まだよくわかりません。

このステイトメントを書いてみてわかった点もありました。それは、ある期間、ある時間、あるいは一瞬のために、時間をかけて準備することが好きなんだなとあらためて実感しました。この展示会が、足を運んでくださいましたみなさまにとって楽しい空間になれたら幸いです。最後に、大好きな高円寺にあるこの空間を提供していただき、そして会場作りなどいろいろ手助けしていただきましたオーナーのヒガシムラさんに感謝します。そして、仕事と言いつつも好きなことをやって遊んでいるしか思えない作品作りに、陰ながらサポートしてくれた妻に感謝します。

今回展示した作品は全て販売しています。気になる作品がありましたら、私かオーナーのヒガシムラさんにお声がけください。

プロフィール

齋藤亮直
さいとう あきなお
saito.akinao@gmail.com
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1969年9月29日 横浜生まれ
神奈川県立厚木東高等学校 卒業
長岡技術科学大学工学部電子機器工学課程 中退
東京理科大学II部物理学科 中退

個展
2016年9月 アリガトサヨナラ, ギャラリーカフェ3

グループ展
2008年10月 DESIGN FESTA PLANET.06, デザインフェスタギャラリー
2011年7月 SHAG Party No1, Paris France
2011年11月 SHAG Party No2, Paris France
2013年1月 Seriously Hazardous Art Gallery, Paris France
2013年3月 Carte blanche aux galeries d'art Boulogne Billancourt, Paris France
2014年7月 Seriously Hazardous Art Gallery, Paris France

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