展示会開催前に緊急事態宣言は解除されたものの県外移動の制限もあり在廊は控えた。その代わりに手書きの手紙をギャラリーに郵送した。6月20日の手紙は最終日の6月21日に直接ギャラリーに持って行った。
手紙なんて書いたことない。日記も書いたことない。たぶんそう、記憶にない。この手紙の宛先はギャラリーカフェ3だが、はたしてこの手紙は誰に宛てているのか。そんなことはあまり考えないようにしようと思う。
世界中でいろいろなことがありすぎて情報が瞬く暇もなく飛び交っている。あまりにも早すぎて少し先のことさえも考える暇はない。手書きの手紙は相手に届いて読まれるまで少しばかり時間がかかる。ちょっと先のことを想像して書いてみよう。このくらいがちょうどよいのかもしれない。もしかしたら歳をとったせいなのかもしれない。
読書はよくするが書くことはほとんどしない。しないというよりかできないと言った方がいいかもしれない。ここ数年、展示会をするようになりステートメントなるものに挑戦してみた。やってみると意外と夢中になりそれなりに書いてはみたが、あらためて読んでみると、言っていることが支離滅裂で、ウソばっかりに思えてくる。それでも、在廊できない中、何かしらの形で展示会に参加したい願望もあり、手紙でも書いてみよう。
20世期の哲学者ウィトゲンシュタインはこんなメモを残している。
ウソをつくより、本当のことを言う方が、しばしば、ほんのちょっとだけ苦痛なだけである。甘いコーヒーを飲むより、苦いコーヒーを飲む方がほんのちょっとだけ苦痛なように。だが私はどうしてもウソをついてしまうのだ。
『反哲学的断章』
凡庸な物書きが気を付けるべきは、粗削りで不正確な表現を、正確な表現に性急に取り替えないことである。そんなことをすれば最初の閃きが殺されてしまう。小さな植物にはまだ命があったのに正確さのために枯れてすっかりダメになる。ゴミとして捨てられてしまいかねない。もちろん物書きではないし、まずちゃんとした文章を書けないといけないのだが。 でも物書きではなくても何かしらの表現するときにも当てはまると思える。 心のどこかにある恥ずかしさから、もっと上手く表現したい、 より真実を伝えたい、などと思ってしまう。到底たどり着くことはできないのですが。
『反哲学的断章』
本題は次からにします。それでは。
本題といっても、何を書くか決めていなし、書かねばならないというものもない。ただ書いているうちになんとなく考えていることがだんだん見えてくる。そう、自分のために書いているのかもしれない。
会社を辞めて5年が経った。これだという辞めた理由はない。少しづつではあるが時間に追われる感覚はなくなりつつある。最近になり、ようやく何に対して辞めたいと思っていたのか見えてきた。
日々のニュースで「生産性」という言葉がよく出てくる。
「生産性のない人間は生きる価値がない」植松聖
「(LGBTは)子供を作らない、つまり『生産性』がない」杉田水脈
この発言に対し、自分も含めほとんどの人は肯定はしないものの完全には否定できないと思う。少し古い言い方だが、ほとんどの人は自分では何も生産できないので資本を持っている人に雇われて何かを生産して生活の糧であるお金を得ている。誰にも雇われていない人も何かを生産してお金を得ている。お金があれば衣食住はもとより余暇の娯楽も得られ、それが幸福につながっている。すごく単純なことすぎて、ほとんどの価値観はそこからできあがっている。
会社を辞めて収入がほとんどなくなったので、お金をかけずに生活しなければならないが、生活を見回してみると「快適」という見せかけのもと、ほぼ全てはお金で成り立っている。どっぷり浸かってしまったその生活からはちょっとやそっとでは抜け出せそうにもない。でも、少しづつでもできそうなことはなんでも自分でやってみようと思った。
会社を辞めて地元に引越してから米作りを始めやっと4年目になる。収穫できる米の量に対しそれにかけた時間と労力を比較してみると、ただ主食である米を得るのが目的であるのなら、アルバイトでもしてお金を得て米を買った方がよほど効率的であり、ある意味ではそちらの方が生産性が高い。そんな意識が最初はどこかにあった。しかし、生産性というごく狭い一面性しか見えていなかったことを知った。米作りをすることにより、土地の豊穣さから大きな活力を得ることを知った。そんな感じでここ数年、作品の制作数は減りその生産性は悪くなったようだ。
明日は『イシカハチカ』の最終日だ。手紙をたくさん書こうと思っていたが本題は1つしか書けなかった。1つだけで終わりにしようかと思ったが宛名のない手紙に返信を頂いたので、今回展示した作品「記録された記憶」と「モザイクカメラ」について最後に少しだけ書こうと思う。
2つの作品の主題は「自分とは如何なるものなのか」である。自分の地位や立場などをできる限り取り去って考えてみた時、そこにはどんな個人としての自分が残っているだろうか?たぶん経験したことだけは取り去れないと思う。それを取り去ってしまったらもう自分かどうかも判断できないと思う。
「モザイクカメラ」で表示されている画像はほとんどが顔が映った自撮り画像だ。モザイクがかかっていても自分の顔は自分であると認識できると思うし、知っている人であればその人だと認識できると思う。人はどのようにイメージを記憶し同一であると認識するのだろう。たくさんの画像の中でもモザイク加工された自分の画像はいつもとは違う自分ではない他人を見るような気分にさせるかもしれない。他人と一緒に並んだ自分の画像はその中でも特別なものと思えるかもしれない。
「記録された記憶」はかなり私的な記憶を視覚化したものである。13才で大病を患い入院した時に買ってもらったレコードが「セーラー服と機関銃」だった。たぶん親からもらったと思うが誰からもらったかは記憶していない。手渡されたそのジャケットの映像だけがはっきりと記憶されている。病気をする前と後で世界の見え方が一変してしまった。そのイメージが薬師丸ひろ子とダブっている。人それぞれ様々な映像を記憶していると思う。あの時の風景、表情、そしてその時の感触や音や匂いや感情も共に記憶していると思う。それを取り去ることはできないと思う。
2つの作品は西田幾多郎から大いに影響を受けている。西田の哲学は難しすぎてほとんど意味不明である。そこで使われる言葉は「純粋経験」から「場所」そして「絶対自己矛盾的自己同一」とどんどん移り変わっていく。しかし一貫している西田の問いは「我々の自己とは如何なるものであるか。我々が之に於て生まれ之に於て働き之に於て死にゆく現実の世界とは如何なるものであろうか。」である。
3年ぶりの個展『イシカハチカ』を開催した経験はどんな記憶として今後残るのだろうか?